マスクをする人が多い日本、それは欧州から見ると違和感がある。数年前、たまたまドイツのカフェで隣り合った人と話したとき、「日本のことはあまり知らないのだが」と前置きをしつつ、「放射能のせいですか?」という推理を開陳されたこともある。公共空間の信頼性と個人いう観点からマスクについて考えてみたい

2020年3月11日 文・高松平藏 (ドイツ在住ジャーナリスト)

■マスクをしないドイツ

コロナウィルスでもマスク現象に違いが出た
日本社会ではもはや「マスクをしないと非国民」という「空気」があるときく。一方、ドイツでマスクをする人はほぼ見ない。個人的には見たことがない。

なぜドイツの人々はマスクをしないのか。
ロベルト・コッホ研究所は、健康な人がマスク着用による感染リスクが極度に低下するという証拠は不十分という。このあたりがマスクをしない医療的根拠だろう。英BBCでも、マスクは感染リスクが小さくなるという「誤った安心感を与える。医療従事者のためにとっておくべきだ」と専門家は解説している。(下 Youtubeより)

さて、1969年生まれの私の記憶では、子供のころマスクをする人はそれほどいなかった。なぜ、日本が「マスク社会」になったのか。これは花粉症の増加をはじめ、様々な理由を考えることができる。

しかし欧州と比較したときに、都市の発展経緯の違いが影響しているように思えるのだ。私はドイツの都市を継続的に見ているが、 欧州において、都市は衛生が担保された空間という信頼性があり、それがマスクをしなり理由ではないか。これはあくまで仮説で、自信もそれほどあるわけではない。が、今回はこの観点から書き進める。

■都市は信頼性を獲得していった

ヨーロッパの都市の歴史は、疫病との戦いの歴史でもある。市壁に囲まれた中世都市は、疫病が「流入」すればひとたまりもなかった。ハンセン氏病やペストの話などは有名だ。イタリアの医師などは冒頭の写真のようなマスクを使用していた。今日では土産品になっている。

歴史を見ると、都市への出入りのコントロールや感染者の隔離などについての発展プロセスが見いだせる。衛生局が設置されるケースもあり、お祭りなどを中止する権限を持っていたらしい。また隔離にしても当初は宗教的理由(患者を慈愛でケアする)に始まり、近代に入り公衆衛生の側面から確立されていく。

近代にはいると、都市は市民社会の「現場」となる。ここでは誰もが人間の尊厳がベースになった「自己決定をする私」でいられることを意味する。個人主義である。余談だが、この考え方がSDGs( 続可能な開発目標 )の根幹につながっていると思われる。(参考:日本企業のSDGsで決定的に抜け落ちているもの

ひるがえって、個人主義には「他の個人との関係」という課題が当然出てくる。公共性はそのためのアイデアのひとつだ。

都市は信頼できる公共空間、個人は安心して自由に振る舞えるが、信頼性維持の責任も伴う。そして緊急時には管理者・権力が安全性の確保を行う


都市は公共性の高い空間である。管理者(行政)や権力はそういう空間(=都市)の安全性を確保することが義務だ。ここの部分が先述したように、歴史的体験を通じて確立されてきた。その結果、 通常の都市は 健康が脅かされることもないのでマスクは不要。そして個人が自由にふるまえる空間という信頼性ができたのではないか。これが私の仮説だ。

公共空間の信頼維持には個々人も責任を持たねばならない。だから病気になった人は公共空間には不用意に出てこず、健康になるまで病院か自宅で療養するという了解ができたのだと思う。

これと符合するように思えたのが、私が住むエアランゲン市内の医師の言葉だ。この医師はコロナ感染者と接触したため、夫人とともに2週間『自宅検疫』を行った。「 仮に感染してなくても自宅待機。社会に対する責任がある 」と地元紙(2020年3月2日付 エアランガーナッハリヒテン紙)の取材で述べている。『社会』の部分を『公共空間の信頼性』と読み替えることはできまいか。

■職場を公共空間としてみると・・・

この構造の相似形に思えるのが職場だ。
ドイツの場合、有給休暇とは別に病気になると簡単に休める制度になっているが、他の社員への感染を防ぐという意味もある。職場は多数が働く限定的な公共空間だ。風邪をひいた人を休ませることは「隔離」といえる。

それに対して、日本では病気でも這って出勤する人は賞賛されるようなところがある。そこに職場という公共空間の管理という観点が見出しにくい。病気の人は他人にうつさぬようように、健康な人はうつらないように、自己責任でひたすらマスクをつける。この感覚が「マスク社会」を作り出す理由のひとつで、昨今の「マスクなしは非国民」という感覚にもつながるのではないか。

こういう職場の違い、ひいてはマスクをめぐる感覚の違いは、歴史的に公共の空間(≒都市)をどう作ってきたかということが、大きく影響している気がする。ひいては、今回のコロナ対応における「国家権力とリスクマネジメント」の了解についても色々と違いが見いだせるように思う。

最後にエピソードをひとつ。
以前、日本行きの飛行機で、隣に母娘と思われる2人の女性が座っていた。よほど楽しい旅だったのか、時々笑いがこぼれる。そんな2人は着陸態勢にはいると、いつのまにかマスクをしていた。私は苦笑を禁じ得なかった。(了)

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら