ドイツから見た「なんだ、その言葉?」今回は『課題解決』をとりあげる。

「課題解決」という言葉が、まるで呪文のように、頻繁に使われている。しかし、この言葉に私は強い違和感を覚える。なぜなら、解決すべきは「問題」であり、「課題」とは本来、「取り組むもの」「推進するもの」だからだ。


「課題解決」という言葉のおかしさ


ドイツに住んでいると、新しい日本語はネット経由で突然目にすることがある。2000年代からだと記憶しているが、やたらに「課題解決」という言い方を目にするようになった。地方のこれからを考えるようなシンポジウムや会議のアジェンダでも「課題解決」と、ナントカの一つ覚えのように頻出する。1990年代にはあまり聞かなかったと思う。

「問題」と「課題」は混同されがちだが、全く異なる概念だ。まず「問題」とは、「正常な状態(=正解)」からの逸脱であり、その修復を指す。

それに対して、「課題」は現状に対し、どのような方向へ進むべきかという「問いを立てる」ことから始まる。また課題の中には「解決すべき問題」が含まれるケースを考えると、「課題」は上位概念だ。ところが「問題」「課題」の区別が極めて曖昧なまま、「解決」に向かって進められている。

余談ながらドイツ語に「課題解決」に相当する表現は日本ほど使われない。これも個人的には違和感を強める原因になっている。


なぜ「課題解決」という言葉が蔓延したのか


「課題解決」という言葉が日本社会に浸透した背景には、21世紀以降の社会変化と日本の教育制度があるように思えてならない。

グローバル化や技術革新によって社会構造が複雑化し、「問題解決」では捉えきれない包括的な取り組みが必要になった。これが「課題解決」という言い方が増えた理由である可能性がある。国立国語研究所の大規模テキストデータベース「少納言」を使って調査すると、2000年代から増加傾向が見られ、特に地方自治体や地域社会、教育分野での使用例が多い。これは私の実感とも一致する。

また、日本の教育制度における「正解主義」も影響しているように思える。昨今は探究学習といったものも取り入れられてはいるが、学校での教育では長年「問題」には「正しい答え」があり、それを導き出すことが重視された。そのため「問いを立てる」という発想が育まれにくい。いや、少々大袈裟だが、正解主義が長かった日本社会には「問いを立てる」機能がないと言える。


使う前に一呼吸おいてみては?


そのように考えると、「課題解決」という言葉が蔓延するのも当然かもしれない。なぜなら課題を明確にするには、問いを立てることから始めなければならないからだ。しかし問いを立てる機能がない社会では、いきなり「解決する」という論法になるのだろう。

言葉は思考を作り、思考が言葉を生み出す。クセのように思わず「課題解決」を日常的に使う方も多いと思うが、口にする前に、企画書に書く前に、一呼吸おいて、解決すべき「問題」なのか、問いを立てて「課題」を設定すべきものなのかを考えてみてはどうか。

「課題解決」という言葉を使うこと自体が目的化している場合は論外であるし、混同しているうちは、議論の方向性や質そのものが十分なものにならないように思う。(了)


著書紹介(詳しくはこちら

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スポーツと民主主義の意外な関係

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなの