ソーシャルネットワークの普及により、事実確認の重要性に関する議論が再燃している。Xやフェイスブックといった主要なプラットフォームの方針が揺れ動く中、この議論が重要であることは明らかだ。誰もが読み手であると同時に書き手でもある世界では、ファクトチェックを実施するだけでなく、「書き手」の教育も推し進める必要がある。
2025年1月20日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
「結果」ではなく「原因」への対処が必要
今日の世界では、民主主義社会を脅かす誤報や「フェイクニュース」の洪水に直面している。私たちはしばしば、ファクトチェックのような手っ取り早い解決策を求める。このような状況を見ていると、約30年前に日本でリスクマネジメントの専門家に行ったインタビューを思い出す。「リスクマネジメントの基本的な考え方は、結果対策ではなくて、原因対策なんですよ」。
ファクトチェックは確かに重要である。しかしそれはフェイクニュース発生という結果への対応だ。今日、私たちは情報の受け手であるだけでなく、情報の生産者でもある。その責任を自覚し、誤報の原因に取り組む行動をとることが不可欠である。
情報哲学としてのジャーナリズム
では、責任ある「情報生産者」とは何か?ジャーナリストとして、私はシンプルな解決策を見つけた。すなわち「誰もがジャーナリズムを学ぶべき」、ということである。
「ジャーナリズム」はしばしば批判されるが、その定義を見る価値はある。ジャーナリズムには「-ism」という接尾辞がついているが、これは根底にある哲学を示している。この哲学は民主主義社会の「一部」であり、批判的思考、事実と意見を区別する能力、情報発信に伴う責任に対する深い理解が含まれている。
ドイツの場合、「プレスコード」があり、この情報哲学への実践的な方針となる。倫理基準を定め、ジャーナリストが注意深く調査し、透明性のある仕事をすることを奨励している。また、真実と人間の尊厳の尊重の重要性を強調し、メディアの現場における責任ある行動の基礎を作り出している。
日本にも「新聞倫理綱領」というものがある。両者は類似点も多いが、じっくり比べると興味深い。比較は別の機会に譲るが、情報哲学の実践的方針としてご覧いただきたい。
予防策としての教育
フェイクニュースの増加に対して、ファクトチェックも重要だが、長期的には問題の「原因」に取り組むべきである。すなわち情報哲学としてのジャーナリズムを教育プログラムに応用することだ。民主主義と情報の質・量は深い関係がある。
もっとも、いくら原因対策を取っても、フェイクニュースは無くならないだろう。それにしても例えば「国語」や「社会」といった教科の一環に盛り込むことで、全体的に情報の質が高まるのではないか。ひいては民主主義の劣化の予防策の一つになると思う。(了)
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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら