日本の学校では「政治的中立性」が重視されすぎて、本来あるべき民主主義教育が形骸化している――そんな報道が話題になっている。ドイツ在住ジャーナリストとして、この問題についてSNSで意見を発信したところ、藤原智也さん(愛知県立大学准教授)との有意義な対話が生まれた。本記事では、その議論を振り返りながら、日本の民主主義教育の未来について考える。
2025年1月10日 文・高松 平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
ドイツから見て新聞記事に覚えた違和感
毎日新聞の記事「デモクラシーズ 過度な「政治的中立性」が子どもの芽を摘む 日本の主権者教育の現実」(2025年1月5日付)は、日本の学校教育で「政治的中立性」が強調されすぎた結果、本来あるべき主権者教育が形骸化していると指摘している。この報道に触れた私は、以前から感じていた「中立」という言葉の便利さと危険性について考えざるを得なかった。
SNSに投稿した新聞記事に対する私のコメント
私は記事の無料部分だけ目を通した。「中立」って便利な言葉だ。みんな仲良く、対立なしで済みそうだ。中立よりも重要なのは「相対化」だと思う。それに「人格と意見」は別物だってことを理解できれば、議論も建設的になるはずだ。
加えて「多様な意見」があってこそ面白い。自分の考えを深められるし、新しい発見だってあるかもしれない。意見形成は民主主義にとってとても重要だ。こういう意見のダイナミズムが「生きた民主主義」だ。ただ、選挙準備や政治闘争の方向性が強くなると、「党派的」になりがち。これは一考すべきだ。かといって「中立」を盾に多様な意見を封じ込めるのは、本末転倒だ。
学校の先生たちも、「生きた民主主義」って何なのか、わかっていない人も多いのでは? 難しいから「中立」って言葉は重宝だ。私の世代(55歳)でも、職場や仕事関係の人とは「政治の話は良くない」と若い頃よく言われた。正しくは党派的になるのは良くないということだ。こういうことも「生きた民主主義」を実装できなかった理由だろう。
私は学校の現場のことは詳しくないけど、こんな風に考えている。どうだろう?
(2025年1月5日 高松 平藏 )
「教えない」というかたちで中立を実現する日本
これに対して藤原智也さんは、日本の学校教育が「教えない」という形で中立性を実現しようとしている点を批判的に捉える(コメント1)。「不作為の作為」や「隠されたカリキュラム」という概念を用いて、この問題を説明する。
「結果、教育で政治リテラシーがつかず、空気に流されやすい思考停止な国民性をそのままに、空気を作ることで既得権を温存しようとする政治家・官僚が封建主義的な手続きで社会決定を行いつつ立場を温存させています」(藤原さんのコメント)。
藤原さんは、ドイツのボイテルスバッハ・コンセンサス(※)に基づく政治教育を例に挙げ、事実認識と価値認識を区別することの重要性を強調する。日本では、両論併記すら避け、考える材料を与えないことが問題だと指摘する。
※ボイテルスバッハ・コンセンサス
1976年に策定された政治教育の3つの基本原則。
- 強制の禁止:教師は生徒に特定の意見を押し付けてはいけない。
- 論争性の原則:政治や学問で議論のある話題は、授業でも多角的に扱う。
- 生徒志向:生徒が自分の利益を分析し、政治に参加する能力を育成する。
この原則は、ドイツの政治教育において、批判的思考と独立した意見形成を促進するための重要なガイドラインとなっている。
社会的内面化がしやすい国、しにくい国
日本の問題を整理してくださったコメントに対して、私もまた応える。(コメント2)
民主主義には完成形が存在せず、その脆弱性も常に伴う。したがって、民主主義を継続的に堅牢化する必要がある。ドイツに拠点を置く「外国人」としての私の視点から見ると、民主主義は啓蒙思想の発展の一つの到達点のように映る。
啓蒙思想とは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで広まった思想で、理性による思考の重要性を強調する。この思想は、旧来の権威や迷信を批判し、人間が理性を用いて自主的に判断し行動することを促進した。その結果、人々は「自己決定する私」というメンタリティを持つようになる。
この考え方は、自主的な参加を原則とする民主主義と密接に関連している。たとえば、「投票」において誰に票を投じるかは、自分自身の意見形成の結果としての「決定」であり、このプロセスが民主主義の本質を示している。
裏を返せば、「啓蒙思想を経験していない国々は、民主主義の社会的内面化という課題をかなり強く考える必要があります」(高松のコメント)。
さらに、藤原さんは、ハーバーマスの「未完のプロジェクト」という概念を引用し、民主主義を固定的なプログラムではなく、生成的なプロジェクトとして捉える視点を提供する(コメント3)。
「民主主義の実現は、固定的なプログラムではなく、生成的なプロジェクトです」と藤原さんは述べる。この視点は、日本の民主主義教育のあり方を再考する上で重要な示唆を与えている。
以上が藤原さんと私のSNS上の対話をまとめたものだ。
朝ドラに見る「中立の迷路」クリアの可能性
ドイツから日本社会を見ると、小さな変化が確実に起きているようにも感じる。その一例が昨年放送されたNHK朝ドラ『虎に翼』だ。
このドラマでは、人権や自由、平等といった憲法上の価値観について、「はて・・・(それって本当に実現できている?)」と何度も問い直す主人公が印象的だった。30年前なら説教臭く感じられ、企画段階で成り立たなかったかもしれない。しかし、多くの視聴者は自然に受け入れており、高く評価する人も少なくない。
「朝ドラ」の主な視聴者は中高年だが、もう少し若い層が見るドラマでも「説教くさい」内容のものが増えている印象がある。つまりテレビのドラマでは人格と意見は別物という感覚が表現され始めているのではないか?これが現実の社会でも適用されると良いと私は思う。
「中立」という迷路から抜け出す鍵は、自分の意見や素朴な違和感を「はて・・・」と言葉にすることだろう。ただし、その際には他者への最低限の敬意を払うことだ(SNSのコミュニケーションではここが欠落しやすい)。他者の人間の尊厳を貶めることなく、意見を交換し、相互に影響することが「生きたデモクラシー」だ。
さらに一歩進めると、意見交換の次には、社会全体にとって良いこと(共通善)を考えながら妥協していくプロセスが待っている。つまり、民主主義とは単なる意見の表明だけでなく、多様な価値観を持つ人々との共生の手法なのだ。(了)
藤原さんと私のSNSでのコメントを転載しておく(全てドイツ時間の1月7日付に投稿された)
(コメント1)藤原智也さん
日本の学校教育では「教えない」というかたちで中立を実現しています。「不作為の作為」ですね。教育学では、「隠されたカリキュラム」と概念化されます。結果、教育で政治リテラシーがつかず、空気に流されやすい思考停止な国民性をそのままに、空気を作ることで既得権を温存しようとする政治家・官僚が封建主義的な手続きで社会決定を行いつつ立場を温存させています。そして、ブレーキのない自動車状態で、国レベルで劣化し続けているのが日本。
ドイツはボイテルスバッハ・コンセンサスに基づいた政治教育をしていますね。下敷きになっているM.ヴェーバーの議論に立ち返ると分かりやすい。つまり、学校教育=行政行為では、事実認識は教えないといけないが、価値認識は教えてはならない。憲法に対応させると、前者は社会権(作為請求権)に、後者は自由権(不作為請求権)に相当します。価値認識については、生徒個人やその家族、地域共同体に委ねられます。学校では、どのような政治的思想がどのような政党をつくり、どのような政党がどのような政策をつくるのか、歴史的事実や科学的事実と照らしながら学ばれます。論争は論争のまま両論併記で教えた上で、どちらを選ぶか、どう組み合わせるかは、生徒=市民が考えて決める、というもの。そしてそのような教育を行うことは、憲法における社会権によって国民が国家に要請していることです。 日本では、その両論併記すら教えない、考える材料すら与えない。その結果が、今の日本です。
(コメント2)高松平藏
日本の学校教育とドイツでの理論的展開についての整理、ありがとうございます。
ドイツ社会の参与観察からいえば、民主主義は啓蒙思想の発展の一つの到達点であると感じることがよくあります。それにしても民主主義は完成形がなく、脆弱性につけ込まれることもある。したがって常に堅牢化が必要であり、ボイテルスバッハ・コンセンサスもその一環という説明がつくと思います。
興味深いことに、数名の教師にこのコンセンサスを知っているか尋ねたところ、60代後半の元教師のみが大学時代に少し授業で出てきたとおっしゃっていました。私の取材範囲では、このコンセンサスを知らなくても「生きた民主主義」を意識した授業が行われていると言えそうです。
逆に言えば、啓蒙思想を経験していない国々は、民主主義の社会的内面化という課題をかなり強く考える必要があります。しかし、これは「完成形がない」という事実に対する可能性とも言えそうです。
また、話の範囲が広がりますが、バルカン半島でも民主主義の実装に苦労している印象があります。宗教や民族の複雑さが啓蒙思想との適合を難しくしているのではないかと思います。 また意見交換しましょう!
(コメント3)藤原智也さん
私も、コンセンサスそのものは詳しく知らなかったけど、「生きた民主主義」の実態をご理解で実践されているドイツ人の方を知っています。
「完成形がない」とは、「未完のプロジェクト」(by J.ハーバマス)と言い換えができそうですね。民主主義の実現は、固定的なプログラムではなく、生成的なプロジェクトです。 日本との差異を含め、またお話したいですねー!
著書紹介(詳しくはこちら)
エアランゲンの取材・調査を元にこんな本を書きました。
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。 著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。プロフィール詳細はこちら