個人主義の再定義、アジア社会の新しい風景が作れるか?

ドイツ・エアランゲン市に来られた大西正泰さん(吉備国際大学 講師)と、町を歩きながら行った対談を2回にわたってお送りする。前回は教育現場をみつつ、社会デザインについて考えた。今回は個人主義の西欧とアジアンチックな「他者の認識」とは何かを話した。


「普通の越境」とは?


高松:個人が組織や集団、固定観念から越えるという意味の「越境」をキーワードにして話しています。前回、日本での越境の議論では若者にその動きがなく、またビジネス界での議論として注目されているということでした。

大西:いまビジネスの観点から登場してきた越境は、本来の意味とは違って、停滞した経済を立て直さないといけない「イノベーションを起こさねば」というゴールから逆算したものです。これは僕が思っているものとは起点が違って、いま必要な「越境」は、もっと「普段づかいの行為」としてものです。

高松:どういうことを想定されていますか?

大西正泰(おおにし まさひろ)
吉備国際大学講師。元社会科教師として起業家教育を実践後、経済産業省のプロジェクトに携わる。2012年に一般社団法人ソシオデザインを設立し、過疎地での起業支援や空き家再生に取り組む。全国で自治体向けコンサルティングや講演を行い、2018年に中小企業庁「創業機運醸成賞」を受賞。教育学修士・経営学修士。1970年徳島県生まれ。

大西:例えば、人がAからB地点へ動くと、何か「かかわり」が生まれやすくなります。人との出会いや景色との遭遇。そこで「何か」が発生すれば、新しい次の偶然の出会いや学びといった「可能性」が生まれるわけです。

高松:そうですね。

大西:前回、カフェで椅子から落ちた高松さんの服を拾い上げてくれた女性の話をしましたが、あれも、偶然的な出会いで、挨拶からコミュニケーションの生まれる可能性=芽がありました。そこが基本的な人間のありようとして、とてもいい。地縁も血縁も関係ない。たまたまその場所に居ただけの「コミュニケーションの可能性」。これが自然とある。そこに、「居心地の良さ」というか、距離感の心地よさを感じました。

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高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。エアランゲン市(人口約12万人 バイエルン州)を拠点に、地方の都市発展を中心テーマに取材、リサーチを行っている。執筆活動に加えて講演活動も多い。著書に「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」「ドイツの都市はなぜクリエイティブなのか」など。当サイトの運営者。


都市の偶発性は個人主義とセットになっている


高松:そういう都市の中の偶発性というのは、いわゆる個人主義の結果だと思うんですよ

大西:「いい個人主義」ってことですよね。

高松:「個人」を強調すれば、「ほかの個人」とどういう関係を持つのかという問いが立ちます。言い換えれば「越境」するにはどうすべきか、あるいは「越境」が簡単にできる環境はどう作れば良いか、そんなことにつながります。ドイツの都市だと、いわゆる公共空間を充実させることが一つの答えです。中心市街地は典型的な公共空間で、不特定多数の「個人」がウロウロする。そして何か困っている個人を見れば、自己決定で助けてあげるという行動につながる。

大西:そうですね。

高松:それに対して「越境」しないまま、つまり「他の個人」との関係を持たないまま、蛸壺に入っていると、気軽に他人に声をかけることすら難しいということになる。

大西:はい。便利になったことで、「蛸壺」と「越境」が同時にオンラインではできるので、リアルな場面では「自分で動かなければいけない時代」になっちゃった。コミュニケーションが面倒くさいかたちに変わっていっているということでしょうね。

高松:「自分で動かなければいけない時代」というのは個人主義が強くならなければいけないという意味とも言えそうです。それで、今の日本はというと、「ほかの個人との関係」について、どうすべきか、とても手間取っているように見えますね。

中心市街地は典型的な都市の公共空間。ここでは「個人」が他の「個人」と簡単に交流ができる。(エアランゲン市)

越境から格差社会が見える


大西:ちょっと話を変えますね。サッカーの話です。サッカーはJリーグができ、地域密着型のチームが増えて、どんどん越境できるようになりました。それによって個が強くなって、どのチームも強くなっています。

高松:日本のサッカー選手が国外に出るケースも増えていると聞きますね。

大西:はい。ビジネスでもアッパーな層は、サッカー選手のように越境することは成長に必要な方法だと肯定し、積極的に越境を取り込んでいる。しかし、これは越境可能な選択肢の豊富さを前提にするので、都市と地方の格差、そして、当然ながら、より高い給与へと越境の方向性は定まるので、自ずと格差社会を志向すると。しかし、どうも、今の格差社会は、僕は不健全だと思うんです。

 高松:なるほど、越境をめぐる、大切な論点ですね。


交通量が多いインドネシアの「美しい光景」


大西:もう一つの論点として、アジアンチックな越境とは何かを考えたいんですよ。

高松:今回もベトナム経由でヨーロッパに来られましたよね。

大西:はい、そうなんです。この前、インドネシアに行ったのですが、交通量がすごいのに、事故も起こらない。実際には事故も多いのですが、信号のないところで、チップのようなものをもらいながら、勝手に交通整理をしている人もいたり、法にだけ依存していない「秩序」でお互いを意識しあって、うまく回っているんですね。

高松:身体知の高い集団ですね。

大西:そうなんです、身体知がすごい。お互い意識してるんですけど、それは「個」ではないんです。ここがアジアンチックなんです。

高松:確かに。

大西:でもね、見ているととても美しい。よく動いてるな、よくできてるなと思うと同時に、こう言うのを見ると、(西欧と明らかに)起点が違う。このようなアジアンチックな中でも、「個」が生きるような可能性もあるではと思うわけです。まあ「個」が生きたら、それはもう、アジアではないので、ああいう美しさは出ないかもしれないけど。

高松:ふふふ。

カオスに見えるが、お互いの間合いが「交通ルール」以上の秩序を作っている。(ホーチミン 2019年 高松平藏 撮影)

日本が中途半端だと感じる理由


大西:インドネシアはじめ、周辺の国の人たちは、基本的にルールをあるものの、いい塩梅に逸脱するわけです。個と身体知の両立というか、折衷が上手にできているなと思う。かつて日本も同じようなものだったけれども、明治維新以降の西洋化で中途半端にならざるを得なかった。どれだけ西欧化しようとしても仕切れなかったところに、日本の「個」の面白さがあると同時に、中途半端に落ち着くゆえの悩みもある。

高松:その中途半端と感じるところは、僕の理解で言うと、近代とは何かという問題。まあ先人がずっと悩み続けていた。

大西:そうですね。今も答えが出てないですものね。

高松:近代って、西欧から入ってきたものですが、今更、切り離せないものです。だからこれはやっぱり一回きちんと勉強しましょうよというのが僕の意見です。そういうプロセスは一旦必要だと思いますね。

大西:僕らが自然とやっている「アジアンチックなもの」の正体。例えば柔道とか剣道をはじめ、何もかも「道」にしてしまう。教育分野でも無意識に「守破離」が想定されている。形(かた)をまず習得して、それを破って一人前になる。こういうことがOSとして持っている。

高松:そうですね。

大西:そういうことを見直した上で、西洋的な個人を検討していく。それから法できちんと、そのお互いの交渉点と、その中余白の部分を決めていくやり方、こう言ったことをきちんと整理するべきだと思います。(了)


和やかに、そして笑いの絶えない対談だった。右が大西正泰さん、左が高松 平藏


高松平藏 著書紹介(詳しくはこちら
エアランゲン市にフォーカスして、「都市の質」を検討しました