ドイツにいると、日本とはまた違う「戦争」の姿が見えてくる。写真はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の戦闘があった都市、モスタルの建物の壁。銃弾の跡が今も残り、反戦の言葉が書かれている。(2019年筆者撮影)

戦争がロクなものではないのは自明のことだが、ドイツに住んでいると、ウクライナ戦争が始まり、ほどなくしてウクライナから避難してきた人々が近所にやってくる現実を目の当たりにする。また、第二次世界大戦に関して、当時の異なる立場からの話を耳にすることも少なくない。そんな話を書き留めておく。

  • 「祖父はナチスの戦車を清掃させられていた」(ギリシャ系ドイツ人、40代の男性)
  • 「祖母から、日本人にひどい目に遭わされたとよく聞かされた」(中国系ドイツ人、30代半ばの男性)
  • 「祖父がナチスの将校だった」(ドイツ人、40代の男性)
  • 「父の仕事の都合で、東欧で生まれ育ったが、戦争で追い出された」(ドイツ人、90代の男性)
  • 「ジャーナリストだった父はロシアで亡くなった」(ドイツ人、90代の女性)

個人的に聞いた、日本側の戦争体験の話も書いておく。
父からは疎開中の話を、祖母からは食糧不足の話をよく聞かされた。また、戦争中10代だった男性からは、愛知県の軍需工場で働いた経験を何度も伺った。

こうした異なる立場にあった人々の話を聞くと、戦争によって、互いに「加害者側」「被害者側」になる現実が浮き彫りになる。


文化の復興効果


戦争の愚かさを感じる一方で、そこからの復興に希望を見出すこともある。
2019年に私はサラエボで行われているジャズフェスティバルを訪ねた。この都市はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992-95年)の主要な戦場の一つだった。紛争終結後、多くの投資が行われ、美しい町並みが再生されたが、未だに銃弾の跡が残る建物も多く、戦没者の墓も目に付いた。

サラエボの町並み。奥には最新のビルが立ち、マクドナルドの看板も道沿いに並ぶ。しかし、銃弾の跡が残った建物もまだまだあるのがわかる。(2019年11月 筆者撮影)

このジャズフェスティバルは、紛争終結からわずか18ヶ月後に初めて開催された。日本になぞらえば、1947年2月に開催されたようなものだ。

推測するに、フェスティバルは、生き残ったことを噛みしめ、回復すること、開放的で文化を内包した都市性を取り戻すこと、人々の尊厳を取り戻す機会となったのではないか。文化には、こうした「フェニックス効果」とでも呼ぶべき役割と期待があるのだろう。そして文化を通して、人間のタフネスを感じさせるのが救いだと思う。(了)


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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら