津田塾大学でスポーツについて話す機会をいただいた。部活地域移行や小学生の全国大会中止などの議論がある。その奥には基本的な課題がたくさんあるが、とりわけ「スポーツ」の定義そのものに問題があるということが浮き彫りになったと思う。ご一緒したのは有山篤利さん(追手門学院大教授)とマーヤ・ソリ ドーワルさん(津田塾大准教授)である。
2022年6月1日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
日本のスポーツの定義に問題がある
津田塾大学で6月1日に行われた対話方式の講演のテーマは「比較文化論から見た現代社会における生涯スポーツの意義Ⅳ」。小学生の全国大会の中止の話題に加え、昨日5月31日にスポーツ庁で行われた「運動部活動の地域移行に関する検討会議」の結果を踏まえて話が進んだ。
今回、3人のあいだで通底に流れていたのは、日本でのスポーツの定義があまりにも狭すぎるということだ。「スポーツ」とは試合に出場することが大前提で、それ以外では「スポーツではない」「『スポーツ』よりも『下』のもの」とみなされがちだ。
これは私自身、日本の高校の教員の方から話を聞いたとき同様のことを感じたことをある。「教育としての部活」とは「達成感」など、試合前提にしたものしか出てこなかったのだ。
運動部活動の地域移行や、小学生の全国大会中止といった課題を考える前に、スポーツの定義をし直す議論が日本ではまず必要であろう。それは「生涯スポーツ」という言葉にも適用できる。
罪深い「生涯スポーツ」という言葉
私にとって、違和感のある言葉が「生涯スポーツ」だ。この言葉が日本のスポーツをかなりミスリードしたと考えている。
ドイツでこれに対応する言葉がブライテンスポーツ(幅広いスポーツ)である。試合に出る「スポーツ」はもちろん、余暇や健康など、個人の年齢、ニーズ、身体能力に合わせて行うスポーツを指す言葉である。
それに対して、「日本のスポーツのイメージが『生涯スポーツ』にも踏襲され、高齢者になっても試合に積極的に出るという意味になっているのではないか」(ソリ ドーワルさん)。「(生涯スポーツで本来想定されているのは)高齢者のみならず、老若男女が対象になっているはずだ」(有山さん)。
最近は「ゆるスポーツ」という言い方も散見されるが、厳しい鍛錬を行う従来の日本スポーツと対比させる意味合いが強い。現在の日本では直感的に理解できる言葉だが、より文脈を明確にした普遍的な言葉を創出する必要があると思う。
この3人で話すのはこれで4回目。他にも様々な意見や見解が飛び出し、学生さんたちからも、たくさんの質問やコメントが寄せられた。また私自身にとっても楽しく、そして刺激的な時間だった。(了)
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コピーはできないが、日本スポーツ問題の議論のための「問い」はたくさんある。
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。また講演や原稿依頼等はこちらを御覧ください。