高松:現役時代は実業団でも活躍されてましたね。
中村:はい。「オリンピックが全て」というのは監督と選手共通の価値観であったように思います。さらに実業団では、オリンピックへ行ったり、結果を出すことが「仕事」でもありました。
高松:指導者側にもそういう意識があると。
中村:はい。実業団で強化されましたし、学校の先生にもそこが頂点だから目指したい!という感じで話していた記憶はあります。
高松:ほかにはどうですか?
中村:「オリンピックに出たら認められる!」。現役の時、こういう気持ちは少なからずありました。また、それが原動力にもなりました。
高松:今のお話をきくと、「オリンピックが全て」というのは、組織や集団で共有されている価値であること(組織文化)、それから実業団では「業務」に内包されている。そして、個人・選手としての承認欲求と関連づいている。
中村:まさにそうだと思います。
高松:加えて、アスリートは若い人が多いので、「洗脳」されやすいともいえるかもしれませんね。
「体育会系のための教養コース」をつくろう
中村:私自身をふりかえると、オリンピックが政治やらお金と絡んでいることは、現役時代考えたこともなかったです。ところで、ドイツのアスリートはどうですか?
高松:トップアスリートは私の取材対象ではないし、身近にいるわけではない。だから正直よくわかりません。ただ選手でも勉学もスポーツと同じぐらい求められると聞きます。
中村:そうですか。
高松:アスリート教育では「スポーツがすべて」という考えはないように思いますね。例えばコロナで柔道のトレーニングができなくなったとき、いくつか読んだトップクラスの選手のインタビューでは「この機会に学士論文を書く」「修士論文を書く」といったものがありました。
中村:違う見方をすれば、東京オリンピック開催・中止の議論は、現役選手にとってオリンピックやスポーツとは何かということを考えたり知ろうといういい機会になるのかも知れないですね。
高松:そうですね。日本のアスリートたち、「体育会系」の中にいる人たちは、スポーツ以外のことに目がいかない。
中村:ほんとそうです。打ち込める環境で素晴らしい面もありますが、難しいですね・・・。
高松:拙著「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか」でも提案しているのですが、自分たちがどういう価値観や構造でできたところで選手として頑張っているのか。そういうことを座学で学ぶ「体育会系のための教養コース」を作るべきだと思います。これを通じて、さらに自分の意見形成の力や、批判力を高めると良いでしょう。
中村:そういうコースで、オリンピックとは何か議論したり、歴史なども含め学んだり、知ることができたら、また違ってくる。引退してからも、もっと幅広く社会で活躍していけるように思います。(了)
高松平藏の著書紹介(詳しくはこちら)
ドイツのスポーツを地域社会の視点からたっぷり書きました。