コロナ禍で、最新の技術を軽やかに導入している台湾を羨む声がある。一定の説得力があり、大切だと思う。他方、われわれは新技術にどういう態度で望むべきかという議論をすべきだろう。
2021年1月29日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
好奇心の強い日本
新しい技術に対しドイツは用心深い。日本は好奇心たっぷりだ。
90年代末からのインターネット、メール、SNS、デジカメなどの普及具合を見ているとこういう違いを感じる。そして、最近話題になっている音声SNSのClubhouse に対しても同様の印象がある。
「用心深さ」のドイツ、「好奇心」の日本━これは両国それぞれの「お国柄」に見える。
150年前の「カエル飛び」国家
経済用語で「カエル飛び(リープフロッグ)」というものがある。開発国の技術や経済が段階的な発展をすっとばして、一気に新しいものに進歩する現象だ
そこで思い出すのが近代化を目指した150年前の日本。
近代的な都市インフラがそろったところはまだまだ少なかった。それにもかかわらず、当時欧州でも最新技術であった発電システムなどは同レベルのものを持っていたらしい。これも一種の「カエル飛び」だ。
これを踏まえて、日本が持つ強い「好奇心」とは、150年前はカエル飛びの原動力だったのかもしれない。
そして現代も、新しいおもちゃに寄せる子供のような強い好奇心があると思う。しかし否定的にいえば、「消費者型好奇心」しか残っていない。だから政策や政治の仕組みに組み込むところまではいかないのだ。
台湾や韓国などのIT活用とそれを決定していく政治を羨む論調があるが、「消費者型好奇心」にとどまっている限り当然の結果だ。
古い石畳を議論する国が示す現代の「近代」
別の視点も述べよう。
ドイツは古い石畳の保護について議論するような国である。
そこには現代社会と歴史を関連付ける発想が強くあり、哲学的問いや人間にとっての価値を考える態度がある。技術についても、こういう視点から考えることが多いように思う。
わかりやすい例をあげるなら、今でもドイツの人々は現金での買いものを好むところがある。クレジットカードは「個人情報の観点から見てどうか」という問いがあるのだ。これが「用心深さ」につながる。
一方、こういう哲学的問いや人間にとっての価値を考えることで、たどりついたもののひとつが「持続可能性」という発想だろう。
この概念を端的にいえば人間の尊厳を中心に据え、環境・経済・社会の適正バランスを構想することである。現代の「近代」ともいえる考え方だ。
ITに拘泥される古い価値
新しい技術へのドイツの「用心深さ」。これは IT が持つ、あるいは IT に求める速度感からいえば「遅さ」につながる。
しかしスピードという価値は、「最新技術」への陶酔感であり、考えようによっては近代初期のものだ。
たとえば20世紀初頭、イタリアを中心に、建築から文学まで幅広く影響を与えた芸術運動に「未来派」というものがある。近代の機械文明や、それに伴う速度を礼賛するものだった。ITの名を借りて、思いのほか、われわれは「古い近代の価値」に拘泥されているともいえる。
だが今日、技術の実装に対して、持続可能性をきちんと盛り込む手間と議論があってしかるべき。これが現代の「近代」であり、ドイツの「用心深さ」の理由のひとつである。
どちらを目指す?「脱・消費者型好奇心」「現代の近代」
さてここで問われるのは日本はどうすべきかという点だ。たとえばこんな選択肢を設定してみようか。
- 技術に対して、「消費者型好奇心」で終わらせず、手っ取り早く社会的に導入するのか、
- それとも、多少遅くとも、技術に対して人間にとっての価値や哲学的熟考と議論を尽くして取り入れるのか、
である。
今の日本はどちらでもない。ではどちらを目指すべきか。
富国強兵を掲げてキャッチアップ型の手法で、手っ取り早く近代国家を目指した150年前ならば、迷わず前者を選ぶべきだ。しかし、そういう時代は終わっている。ならば、後者を選ぶべきだと思うが、どうだろう。(了)
著書紹介(詳しくはこちら)
大学・研究所と企業、医療技術と経済政策を関連付けて、地域経済強くする。
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。