オリンピック開催について、コロナ禍で1年近く延長・開催・中止と多くの議論が噴出している。感染症と対峙する五輪は、おそらく史上初。倫理的な視点から検討が必要ではないか。
2021年1月20日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
オリンピックをめぐる多くの議論
政治、オリンピック委員会、各スポーツ団体、選手、メディア、経済界など多岐に渡る分野に思惑や要望があると思う。また開催を強く推す意見に対して、反対の声も大きい。
こういう様子を見て思うのが、コロナ禍のなかで、オリンピックそのものを倫理的に見るとどうか、という議論の欠如だ。
ドイツは倫理的な検討をよく行う
ワクチンの開発と接種が進んではいるが、コロナはいつ、収束するのかという不確実性が前提にある。おそらく、科学的にいえば、人々の一切の接触を一定期間なくせばよい。
しかし、そうもいかないのが現実だ。
各国の対応を見ると、社会・経済を破綻させず、どのように収束に持っていくかに腐心している。そして、同時に各国の特徴が浮かびあがってくるのだ。
ドイツを見ると、社会・経済の破綻回避という課題に加えて、民主主義が健全に維持できるかどうか、という点を常に議論している。これは倫理的な問いである。
目を転じて、科学や技術に関しても、常に倫理からの議論は行われている。わかりやすいのがクローンなどの生命科学だ。
また、ドイツは原発を停止した国であるが、これは社会学や哲学、神学といった分野から、「原発という技術は、われわれの社会にとって何か」という倫理的議論によるものだった。
様々な「価値」と現実が対峙、あるいは錯綜する場合、倫理的な視点から検討することはとても大切だ。
感染症との対峙、史上初の出来事では?
オリンピックの話に戻す。
スポーツ社会学や武道教育などが専門の有山篤利さん(追手門学院大学教授)は、当サイトでの対談で、次のようなことを提言されている。
すなわち延期・開催・中止という意見が右往左往する状態にある今こそ、スポーツやオリンピックの価値は何かをよく議論し、「ヒューマニズムや人間の礼賛の視点を示すオリンピックにしてはどうだろうか」。
さらに一歩進めて、不確実性の高い状態でのオリンピックそのものを、倫理的な視野から議論をしてはどうかと思うのだ。
スポーツと倫理といえば、フェアプレイのあり方など「スポーツの中でおこっていること」を対象にすることが多いと思う。国際オリンピック委員会による「倫理規定」もあるが、オリンピックの運営に関する倫理的規定が中心になっているようだ。
一方、オリンピックそのものは歴史的にいえばその時代の政治や経済、戦争などにかなり影響を受けており、そのたびに政治学や経済学などから議論がおこる。
今回は世界的な感染症という複雑な要素が伴うものとの対峙である。史上初の出来事ではないか。
残念ながら私自身に、倫理から論じるほどの力量はない。
しかし、倫理的な議論を重ねることで、オリンピックを起点にした人類の哲学的な財産を作ることになる。(了)
著書紹介(詳しくはこちら)
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。
2020年には「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (学芸出版 3月)、「ドイツの学校には なぜ『部活』がないのか 非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房 11月)を出版。一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。