2020年11月16日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
経済的に困窮していない人でも使う「生きづらい」
「生きづらい」という言葉がよく聞かれる。
私はドイツに拠点を移したあと、ネットで初めて見たと思う。21世紀に入ってから頻出するようになった。
この言葉、どういう意味だろうか?
人間関係や職場の雰囲気、空気を読まねばならない煩わしさ、困っていても手助けが少ない。こういうことを「生きづらい」と表現することが多いと思う。だから経済的に困窮していない人でも「生きづらい」という感覚を持つ。
自己責任市場経済と「癒やし」
この言葉が広がった理由、「個人主義」を手がかりに説明がつきそうだ。
個人主義は戦後、主に米国から導入された新しい価値観である。しかし、「俺は一人で生きるぜ」などといえば格好が良いが、実際はなかなかそうもいかない。日本の場合はムラ的な人間関係(世間)の中で慰めてくれたり、話を聞いてくれるような人もいた。失業すればその中で仕事を探してくれたりもした。
ただ旧来のムラ的な人間関係は強制性が強く、流動性にとぼしい。そして窮屈さがある。「個人主義」はそういう人間関係を拒否する言葉でもあった。
旧来のムラ的な人間関係が中途半端な状態で残る。そこに新自由主義という「自己責任市場経済」が加わるが、このころから、「癒やし」という言葉もかなり使われるようになったと思う。
これは「傷ついた個人がいること」に呼応していたのではないか。やがては「生きづらい」という言葉の登場につながった。そういう説明がある程度できるのではないか。
地域の非営利法人、教会の意味
個人主義には「他の個人」とどう関係を持ち、「われわれ意識」「個人主義の中の優しさ」などの領域を、どう作るべきかという課題が生じる。しかし日本はその課題をほとんど考えてこなかった。その代わりが「癒やし」「生きづらい」という言葉の広がりだろう。「寄り添う」「傾聴」といった行為を重要視するようになったのもそうだと思われる。
ここで個人主義の国のひとつドイツを見る。
まず地域内にはNPOのような非営利組織など、コミュニティがたくさんある。これは強制性のあるムラ的な地縁組織ではない。出入りが自由で、それでいて「われわれ意識」も持てる。
教会も大きな役割がある。弱ったり、困っている個人を心理的に手助けした。教会のそういう機能について脱宗教化したのがセラピストという職業だといえる。ストレスや人間関係などで弱った「個人」は自分のことを整理するために気軽にセラピストを訪れる。
概念ベースでいえば「連帯」という考え方がある。
困っている赤の他人を助ける原理だ。これは個人主義の助け合いの概念という理解もでき、社会保障の原理になっている。
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さらに経済分野から見ると、日本は「自己責任市場経済」だが、ドイツは「社会的市場経済」。市場の不具合で個人がつぶれそうになっても社会がカバーしようという方針だ。
ドイツを見ると個人主義のための安全装置がたくさんあるのだ。それに対して、
「日本の個人主義には安全装置がない」
━ そのように考えたとき、地域の身近な取り組みから政策にいたるまで、何が必要かという議論を深めることができるのではないか。(了)
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。