有山:今回のコロナで、阪神タイガースの選手が感染しました。復帰して退院したときに「僕はプロだから、これからはいいプレーでこの失敗を取り戻す」というようなことを言っている。
高松:はい。私もその記事読みました。
有山:感染原因は本来なら控えるべき飲み会の参加。感染症に対する油断とか自律した行動と、プレーは何の関係もない。でも、選手はプレーが向上したら、「悔い改めた」と思ってくれというし、ファンもそれで納得してしまう。日本人にとって技術は心のあらわれ。他の芸道でもそうだし、職人の世界にも通じる。実に、奇妙な考え方です。
高松:なるほど。
有山:野球はスポーツだが、武道と混じり合ったものなのかもしれない。一球入魂とかやたら技と心が結びつきます。アメリカのベースボールとは明らかに違う。
高松:日本の場合「野球道」という言葉すら生まれました。
有山:一方、野球とは毛色が違うサッカーはどうか。ドリブルがうまくなったら人格ができるとはいわないです。
「理論と実践」か、「実践は理論」か?
高松:柔道に技の理合を学ぶための「形(かた)」がある。ドイツの柔道家を見ると若くてもハマっている人がいる。ドイツ社会は理論と実践をセットで強調するような傾向がありますが、これが影響しているのではというのが私の仮説。
有山:今の日本は実践に偏りすぎかもしれない。動く「形」を採点する競技になりかけている。
高松:理論通りに実践ができるか、実践を理論にできるかという思考がドイツ社会全般にあるように思う。形(かた)を熱心にやっている人たちを見ると、たまたまかもしれませんが、エリートが多い。彼らは理論を当然重視するし、それに基づき体を動かすというのは実践になる。理論と実践をどう関連付けるかというところが面白いのではないかと思えるんです。
有山:なるほど、ドイツ風の解釈だと思います。日本の場合は「理論と実践」ではなく、「実践=理論」。両者は裏表の関係で区別することはできない。なので、正しい実践を積み上げれば、正しい理論は身につくべきもの。
高松:日独の違いがよく分かるのが学校での計算。極端にいえば、ドイツは1たす1がなぜ2になるかという理屈がわかればいい。だから授業中に電卓使用OKになります。日本はドリルをガンガンやって、理論を身体化することをものすごく重視する。ヘタすると理論はいいから、とにかく1たす1は2になるということを身体化する。
有山:座禅なんかがそうです。考えてはいけない。悟りは降ってくるもの。悟りのために考えてはいけない。だから、「心身」という語も「身心」と書く。弓道でも「的にあてることは考えるな」という。外国人に言わせればそんなアホなといいたくなる。(笑)
でも、それが日本。実に奇妙だけれど、豊かな身体観だと思う。
高松:そのへんのことに惹かれた学者が「日本の弓術」などで知られるドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル、彼が有名です。 それにしても「的にあてることは考えるな」ってねえ・・・。(笑)
有山:そう。(笑)
そんなふうに、無茶なことを言うわけだが、それでもおもしろい。このような伝統的な「わざ」へのまなざしは、これからのスポーツのあり方として大きな示唆を含みます。例えば「極める」という楽しさの発見。
高松:わかります。
有山:しかし、今の日本で、そういうところに着目した議論はおこらない。「競う」場がなくなるだけで、スポーツの全てがなくなったかのように考えることは、日本としては情けないですね。(次回に続きます)
第3回目 「托卵モデル」という日本の構造
「体育」と「スポーツ」が一緒くたになってしまう背景に迫ります。
4回シリーズ 長電話対談 有山篤利×高松平藏
■オリンピックの代わりに何を考えるべきか?■
第1回 五輪の価値とは何か?
→第2回 コロナ危機、試合中止は問題か?
第3回 「托卵モデル」という日本の構造
第4回 「相手任せ」になる日本の理由(最終回)
ドイツ・エアランゲンからネットを使って対談。あたかも「長電話」の如く、長尺対談記事の一覧はこちら。