有山:スケボーやスノボーなど新しいスポーツにそんな側面が見えます。
高松:あらま、意外な競技が出てきました。
有山:はい。(笑)
あるスノボーの国内大会で、日本の有力選手が優勝した。しかし決勝で大技に失敗。そのとき大会のMCが、「もう一回の演技」を促しました。
高松:その選手はどうしたのでしょう?
有山:競技としては採点もされないのに本当にもう一度やったんです。しかも演技が終わったあと、うまくできたのでガッツポーズ。また、お客さんもそれを見て割れんばかりの拍手。勝敗には関係ないのにね。
高松:パフォーマンスができて、それを見てもらえたらそれでいい?
有山:そういうこと。確かに国内トップの大会だったので勝敗はかかっている。しかし、勝敗とは別の軸をもっていると見たときに、「こいつら武術家といっしょだな」と思いました。新しくて古い!
高松:ふふふふ。
有山:競技化されてはいるが、剣道家も同じことを言います。「『わざ』で勝たないと面白くない」ってね。ベテランの剣士は力任せの若者に「負け」てもぜんぜん悔しくなく、「わざ」で劣った感じるときが一番悔しいらしい。オリンピックに背を向けた剣道の真骨頂だと思う。
技と人格は一致するという考え方
高松:武道は「スポーツ」とは違う。
有山:そう。仲間の確認や勝敗など競技スポーツは基本的に外向き。武道と競技スポーツをわけるのはそのへんなのかなと思う。武道は自分の内面に入っていくアナログな作業が大きい。
前回も述べましたが、これからのAIやネット隆盛の時代には大変示唆的ではないか。
高松:コロナ禍で文化の分野でもデジタルで使うことが増えた。ドイツの新聞の論説記事で、ミュージアムで歩いた時に響く足音とか、そういうリアリティを知っていないと、デジタルをいくら使ってもきちんと享受できないというような指摘がありました。そういう身体性が伴う経験は大切。
有山:同感です。特に日本の武道というのはそういう身体感覚がすごく豊か。スポーツと比べると、例えば教育のしかたもぜんぜんちがう。スポーツの教育というのは競うことや、仲間でチームプレーする活動を通して、その効果で人間性を高めていくと考える。しかし、柔道の創始者・嘉納治五郎師範によると、どうもそうではない。
高松:というと?
有山:カギになるのが技。自分の技が上手になったとする。その「上手な技」というのにはなんらかの原理原則があると考える。それがまた、世の中を動かす原理原則と同じと見る。これだと、結局技がうまくなるしかない。
高松:つまり・・・。
有山:「技が上手」ということと「人格」が同一視されるってことです。これは、柔道にも受け継がれた日本の武術・武道の理想。少しオーバーに言えば、「正しい背負い投げができたら立派な人格が完成する」というユニークな主張。だから、技は単なる技術ではなく心も含んだ「わざ」というしかない。
高松:なるほど。
有山:同様のことが相撲でも見られる。横綱の白鵬関は「張り手」とか「かちあげ」をよくする。顔面をたたいたり、肘を使って相手の顎をゴンとやったりする荒っぽい技。それに対して「横綱の品格を汚す」と批判される。
高松:ルールとしては問題ないはず。
有山:そうです。つまりスポーツ競技としては問題ない。しかし、武道としてはそうはいかないんですね。技は心も含んだ「わざ」だから。横綱らしい鷹揚な人格を象徴する技が求められる。荒っぽい技は人格の荒っぽさの象徴。卑怯な技をする人は人格も卑しいという具合に技が人格と同一視される。だから時代劇みると、必ず剣術の達人は人格者。悪党は絶対に技が劣る。(笑)
高松:そういうところは日本文化といってもいい。
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