ゴールデン・ステイホームの日本、家にいることは何だったのだろう。ドイツと比べて考えてみた。

2020年5月7日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)

政府から直接降ってくる「要請」

ネットや友人・知人とのやりとりを見ていると、家にいることは「辛抱」や「我慢」というものが多かったと思う。

ここでの辛抱や我慢の使い方は、わがままを言わず、ツライけど耐え忍ぶといった意味だろう。辛抱とふんどしは緩めてはいけないのだ(安永7年に見られる諺より)。「自ら粛(つつし)む」ことを政府から「要請」されていることを考えると、確かに整合性がある。

やや大げさではあるが、「自粛要請と我慢」の組み合わせを見ると、「臥薪嘗胆」とか「欲しがりません勝つまでは」といった「お上」から人々に直接降ってくる代表的なスローガンと関連付けて考えてしまう。

余談ながら「ついこの前まで一億総活躍が言われていたのに、一億総自粛になっている」という旨の書き込みもSNSで目にしたが、思わず苦笑した。

家にいることは、個人の社会的責任だ

一方、私が住むドイツではどうだろう。
自宅にいることは、「連帯」とか「社会的責任」という言葉で表されることが多いようだ。

ここでの連帯は「個人主義の団結原理」という理解ができると思うが、自宅にいることは高齢者などのリスクグループの感染を防ぐための自主的な行動といったところだろう。

そして、私の理解では、外出しないことは、マスクなしでも自由に振る舞える安全な公共空間(社会)をとりもどすことが目的であり、それゆえ「社会的責任」ということになるだろう。

サンプルとしては「一例」にしかならないのだが、ある若者に「外出しないことは何か?」と問うと、しばらく考えて「責任かな」と返ってきた。

参考:
日本に欠如している団結原理
ドイツのコロナ対応で強調される「連帯」の意味 (東洋経済ONLINE)
西洋の団結原理「連帯」が日本に登場した日

個人が社会を作っているという意識

日本と対比すると国と個人のあいだに「社会」という空間があるかどうかの有無が見いだせる。ドイツの個人が作っている「社会」があるから、それに対して責任も生じているという理屈になる。

もちろん、外出できないことで生じるストレスはドイツでもある。それを見越して、早々に家庭内でのDV発生に対する対応なども行われた。外出制限で体重が増加したといった「健康問題」も出てきている。また自宅勤務をあれほど求めていたのに、始めてみたら会社のほうが仕事がしやすいなどという意見も出た。

それにしても、自宅にいることを、個人はどう位置づけるかを見ると「社会と個人」「国家と個人」の構造が透けて見えるように思う。

さて、あなたにとってステイホームは何だっただろうか?(了)

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら