5月4日に行われた安倍首相の記者会見の動画を見た。そこで述べられたのが敬意、感謝、絆という言葉だ。ドイツから見ると、政治の言葉として使える「団結原理」が日本には確立されていないことを表しているように思える。
2020年5月5日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)
悪い言葉ではないのだが・・・
5月4日の安倍首相の会見を見ると、現在日本で起こっている問題などをとりあげている。感染者やその家族への偏見を持たず、支え合いの気持ちを持っていただきたいということや、医療従事者や物流関係者など、生活を支えている人への敬意や感謝の気持ちを述べている。
これは政治家として発信すべき正しい言葉だろう。一方、気になるのが次の箇所だ。
私たちの暮らしを支えてくださっている皆さんへの敬意や感謝、他の人たちへの支え合いの気持ち、そうした思いやりの気持ち、人と人との絆(きずな)の力があれば、目に見えないウイルスへの恐怖や不安な気持ちに必ずや打ち勝つことができる。私はそう信じています。
首相官邸のサイトより 2020年5月5日閲覧
ここで出てきた「敬意・感謝・絆」などの言葉そのものは、悪いものではない。安倍首相を支持している方は必要以上に、肯定的に捉える人も多いのではないだろうか。
ただドイツから見ると、政治にも使える団結原理がないことの裏返しの言葉のように思えるのだ。
声高に一致団結が言えない日本?
では、ドイツの場合はどうなのだろうか。
コロナ危機当初から「連帯」が強調されていた。
この言葉は日常的にも耳にする言葉で、ドイツの国・社会を理解する重要なキーワードのひとつだ。人間の尊厳を中心に。自由、平等、民主主義といった概念とも連関性があり、政治の言論としても用いられる。一言でいえば「個人主義の団結原理」と考えると理解しやすい。
もちろん、日本にも団結の原理はある。
ただドイツとの対比でいえば、日常生活から政治に至るまで使える普遍的概念がない。
それゆえ、政治の言葉として「一致団結しよう」と、声高に言えないところに問題があるように感じるのだ。
というのも日本では、「個人主義」をいかにも借り物のままで21世紀に持ち越している。だから個人が他の個人とどういう関係を切り結ぶかという議論が不十分だ。
そんな状態で「一致団結」というと、戦時中のような滅私奉公など、個人をおし殺すような様子を想像されるからだ。
参考:
日本に欠如している団結原理
ドイツのコロナ対応で強調される「連帯」の意味 (東洋経済ONLINE)
西洋の団結原理「連帯」が日本に登場した日
ひねり出した「団結」?
それを考えると、「敬意・感謝・絆」というのはいかにも苦心してひねりだした「団結」のように思える。
だが、「絆」は語源的にいえば「親子の絆」といったように、切っても切れない血縁とか地縁という関係が背景にある。自己決定をベースにする「個人主義」の関係性とは異なる。
だから絆を語源のまま、政治の文脈にはいってくると、個人主義など西洋の概念で組み立てられた(はずの)体系とは矛盾が生じる 。しかし(最後は食傷気味になったとはいえ)「フクシマ」のときがそうであったように、日常的な団結原理として多くの人の中で響く。
ドイツから見た時に、日本の問題というのは、西洋で発展してきた諸概念をベースに国を造形している点だ。そのため既存の日本の価値観、道徳と乖離したり、無意識に絶妙な混同をおこしていることだと思える。
コロナ危機はこういう日本の構造を見せてくれる機会になっている。(了)
執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら。