SDGs (持続可能な開発目標)という言葉が頻繁に聞かれる日本。しかしドイツの都市発展の歴史を鑑みると、決定的に抜けているものが見出だせる。今回は企業との関係を見ながら考えたい。

2020年2月10日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


ドイツでほとんど聞かないSDGs


SDGs(Sustainable Development Goals/持続可能な開発目標)とは何か。
2015年9月に国連サミットにおいて採択された国際目標で、2030年までに持続可能な社会の実現のための17の目標から構成される。それらは経済、社会、エコロジーの分野にわけられる。

この目標自体、私は異論はない。企業はこれを経営方針の中に取り入れていくべきだ。企業価値を高めるという経営面でも検討すべき目標だ。

ただ、ドイツでSDGsはあまり聞かない。頻出する日本がものすごく不思議に見える。

一方でドイツの都市発展の歴史を見ていると、SDGsの発想そのものが欧州的だと思える。これがドイツで今さらSDGsを声高にいう必要がないひとつの理由かもしれない。そして同時に日本で、ある重要なものが理解されていないように見えるのだ。


都市の発展は問題解決の歴史


ここでドイツの都市発展の歴史を概観する。
中世の都市は防御のための市壁に囲まれていた。物理的に存在感のある壁は「内と外」をはっきりと切り分ける。アニメ作品「進撃の巨人」をご存知の方は、作中で描かれる町とその外側を思い浮かべると想像しやすい。

内側には市場があり、人々が暮らし、働いている。そして自治もある人工空間だ。この密集した空間で人が死なないためには、きれいな水と食糧が必要だ。同時に疫病などがおこりにくい公衆衛生の発想が必要になってくる。

近代に入り、都市には工場で働く「労働者」という階層が史上初めて生まれる。だが彼らの処遇には問題も多かった。健康維持や教育を受けることができ、適正な報酬が得られ、疾病や怪我で働けなくなったときの保障、こういったものが求められた。

NPOに相当する団体活動が都市で盛んになる。ここでは出自や地縁・血縁とは異なる平等な「赤の他人」が同好の士として社交を行い、議論や公益活動を行うことが出てくる。

工業化は都市の大気汚染などをもたらす。この問題は20世紀の半ば以降、大量生産・大量消費で加速。環境問題が顕在化し、製造者・使用者の責任が明らかになる。20世紀最後半になって、「持続可能性」という概念に収斂されていく。

都市は問題解決の歴史であり、同時に相互尊重の概念「人間の尊厳」確立の歴史だ。


「人間の尊厳」の了解が抜けている


都市発展でもたらされたものは、次のように整理できるだろう。

  • 都市は衛生的で水・食糧があり、生命が維持できる
  • 都市では自己決定で生き方を決め、教育を受け、働き、生活の質を高めることができる
  • 上記が実現できる都市環境は政治・社会への参加することでできる
  • さらに種としての人間生存基盤「自然環境」の保全の取り組み
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京都大学こころの未来研究センター教授・広井良典氏と高松平藏の対談(東洋経済オンライン)

まとめると「経済性」「社会的(であること)」「エコロジー」。SDGsと重なるのがわかる。が、そこに中心的な「人間の尊厳」が伴っている。日本でこの概念の了解が決定的に抜けている。

もっともそれは当然のことかもしれない。というのも、この概念は欧州で歴史の中で展開されてきたものだからだ。 換言すれば都市の歴史は「人間の尊厳」を実装してきた歴史ともいえる。 ドイツの場合、戦争中に人間の尊厳を徹底的に踏みにじった経験がさらに加わる。

それにしても、日本社会は「人間の尊厳」の理解に務めるべきだろう。厳しい言い方をすれば、これを抜きで17の目標を書いたカードを並べ、議論をしているように見える。

別の観点からいえばSDGsを声高に叫ばずとも、「人間の尊厳」を軸に企業のあり方を構想したとき、顧客、従業員、株主といった直接的なステークホルダーのみならず、事業拠点地や事業に関わる地域社会、製造プロセスなど、あらゆるものとの連関性が確認できるはずだ。(了)

執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト。当サイトの主宰者。著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。一時帰国で講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら