祖父のエピソードから

私が生まれるはるか以前のこと、実家は薬の製造販売を行なっていたらしい。その時の登録商標がこの馬印(=写真)だった。干支にちなんで年賀状に使ってみたのだが、祖父のエピソードに興味深いものがあったので、この機会に少し書きとどめておきたい。

2014年1月1日 文・高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト)


売上金を神棚に


薬の製造販売、正確には製造・卸をしていたという祖父。私が生まれたときにはとっくに廃業していた。モノクロの遺影や登録商標の馬印はじめ、なんとなく昔の家業の『断片』に接することがあったが、祖父の人となりについてはほとんどわからない。

ただ、断片を集めた全体像をひとことでいえば、『きちんとした地方の商人』という感じの人だったようだ。

そんな祖父の日課は売上金を神棚に必ず供えることだったという。この話はずっと頭の片隅にあった。

それは、つつがなく商売ができたことに対する感謝の表れや信仰心と解釈できるかもしれない。が、むしろ経営面で倫理的なコントロールの機能を果たしていたのではないかと数年前から思えるようになった。

というのも、売上金を神棚に供えることで、そのカネをどう使うかは超越的な存在に見られることになる。商人として下劣な使い方はできないはずだ。むしろ人の道にかなったカネの使い方を選択するだろう。


もちろん神様といってもキリスト教的な神とはまた違う。しかし雑駁ないいかたをすると、神棚の神様のもとに、商人として、あるいは人としての正しい価値観とその実行に影響していたのではないか。そんなふうに考えると『きちんとした地方の商人』という漠然としたイメージとも重なってくるように思えるのだ。


宗教と経済倫理


商売と倫理という側面からいえば、アメリカのMBA(経営学修士)でも主にステークホルダーという側面からビジネス倫理という形で扱っているときく。企業経営の中で倫理的な課題を折込みながらマネジメントを行なっていくのは今日では当然ということなのだろう。

ドイツを見ると、1980年代から経済倫理に関心が集まっている。その後、1990年代後半に環境問題などの影響をうけて、持続可能性といった側面から展開されてきていると私は理解している。

興味深いのは、ドイツの経済倫理の源流をたどると、20世紀初頭に強い影響力があったキリスト教社会論にたどりつくことだろう。


拙著でも地方におけるドイツ企業の社会貢献の例とその意義について言及している。これが地方都市のクリエイティビティにつながる。



ドイツの社会がどういった概念で動いているかをみると、必ずといってよいほど、キリスト教から出発した価値観が中心になっている。特に公共の福祉の実現につなげようという理念、あるいは原動力になっていることが多い。

また日本で、宗教というと忌避される傾向もあるが、実は宗教には倫理教育や共有価値観をつくるといった社会的機能がある。ドイツをみるとキリスト教が経済分野へも影響を与えているということがよくわかる。


普遍的視野の獲得につながったのだろうか?


一方、日本の商家のすぐれた経営理念というと『売り手よし、買い手よし、世間よし』という近江商人の『三方よし』がよく知られる。今風に言えば売り手の利益と顧客満足はもちろんだが、さらに商いを通して、商売をしている地域の公共の福祉にも貢献すべき。これぐらいの意味だろうか。

この理念がなぜ優れているのかといえば、売り手・買い手だけではなく、『世間よし』というある種の普遍性が含まれているからだろう。

時代劇などに登場する日本の商家をみると、必ずといってよいほど神棚がある。

祖父のエピソードから考えたことと併せて、あてずっぽうな想像力を働かせると、商家の神棚は、買い手・売り手だけを見るのではなく、『世間よし』の実行のためではないか。一種の普遍的な視野を獲得するわけである。神棚はビジネス倫理の象徴・維持装置になっていた。そんなふうに思えてならない。(了)

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執筆者:高松平藏(たかまつ へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリストで当サイトの主宰者。 著書に「ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか」など。 最新刊は「ドイツのスポーツ都市 健康に暮らせるまちのつくり方」 (2020年3月)
一時帰国では講演・講義、またドイツでも研修プログラム「インターローカルスクール」を主宰している。プロフィール詳細はこちら